推敲について

「作文を書き終えたら、出す前によく見直しなさい」

と、小学生の頃はよく先生に言われていた気がする。
講演会の感想、運動会の感想、学芸会の感想、などなど。
そう言われてもわたしはいつもさらっと見直すフリだけで、ほとんど何も修正しないまま提出していた。
作文というのは書くことが好きな子と大嫌いな子に極端に二分されるものだと思う。しかも単なるイベントの作文を書くことに、絵や音楽のような上手い下手もないし徒競走のような順位もつかない。
だから作文が「好きな方」に入るわたしは、とにかく早く書き終えることができるという小さなアイデンティティを築くことに躍起になっていた。

そもそも、結構最近まで先生の言う「作文の見直し」が、具体的に何を見直すことなのか全然分かっていなかったということすら気がついていなかった。
わたしが今まで注目していたのは、
•漢字間違い
•内容、伝えたいことが合っているか

の、2つだけだった。
ただし書くときは自分の思ってることから逸れたことは書かないはず、漢字を間違えて書いたということは間違えて覚えてるからもう一度見ても分からないかも。という考えに至り、結局さらっと見直しをするフリだけをする、という感じだった。

それがそれから10年以上たった今、ブログで漫画や映画の話を書くようになって、始めて2年ぐらいの間に"推敲"にやたらと時間をかけるようになった。
それは感想文というより説明の練習だった。
物語の、こういう部分に共感したとか主人公はこうだからあんな行動に出たんだろうとか、感想を述べていただけだったのが、その自分の発言に共感してもらいたいという思いが強くなると、まずその話自体の自分がクローズアップしたいところを抽出して説明し、基礎を知ってもらった上でさぁどうよ、共感しなさいよ、という風に書くようになった。
書いているうちに、段々と「この物語を読んだことのない人が元ネタを読みたいと思える文を書こう」というのが目標になった。

話にもよるけど、その目標を達成するには物語の"面白さ"を抽出しながらも、100%説明しきってしまうのではなく(物によるけど)読み手が純粋に自分で驚きたいだろうところは言わない、とか気になるだろう大事な部分も言わない、とか。
説明しつつも肝心なところを言わないという制約がついた。
さらに、読み手がその物語を知っていたとしても「あぁ、そうだった、そうだった。そう、そうなんだよねぇ」なんて思ってもらえるレベルで、説明しすぎる鬱陶しさも無いようにしたかった。

自分の中での条件があると、見直ししてきちんとそれが成立しているかが気になって仕方がなくなった。
書いた文を読み直すと携帯で書いているせいもあって誤字脱字は多いし、思考スピードに手元が追いついておらず話が飛んでいたり、結構意味不明で恥ずかしくなる。

なるほど、これが推敲ですか先生!

時には直しようもなく全消去したりしながら日々精進。
客観視しながら推敲し、また説明文を書き、、、という作業の繰り返しは結構頭の体操になるから好き。

だけどそんな文章を書くのはすきなんだけど、どうもそういう元ネタありきの文しか書けない。
なんにしたってわたしは0から創作するのが苦手だからなんだと思う。

というわけで元ネタに頼らないブログを、と思い新しく始めた次第でございます。(時々あるけどね)


けど、


ギャルとか青文字系が自撮りしてきらっきらな毎日を語るブログめちゃ羨ましい。

(  °  ω  °  )


管理外の味方の数

超高速!参勤交代見まして。
あ、これから見たい人はごめん




(  °  ω  °  )


田舎の大名が江戸の嫌なやつの嫌がらせで、つい先日参勤交代で江戸から帰ったばかりなのにまたすぐ、しかも5日以内に江戸に来い!と言われたもののお金も時間も足りない中で移動中は一応大名のプライドを保持しつつ(行列の長さとか)ミッションクリアなんてできるの?!
っていう話。

この大名は結局、今まで「困った時はお互い様」精神で自分のとこも貧乏なのに食料を譲ったりとか、「めっちゃあんたのこと信頼してるよ!」オーラ全開な対応を貫いたおかげでみんなが味方になってくれた、という流れ。

返報性の心理ってやつ。
良い対応されたら相手にも優しくしたいし、嫌なことされたら相手のことも嫌いになっちゃう。

自分や、組織の中(家族だったり友達グループだったり勤め先の部署だったり)の人たちだけでどうにもならないことを、ひっくり返すきっかけや大事な力になるポイントって案外全く管理外な味方にあったりする。んじゃないかと。

映画でも突然敵だった奴が助けてくれたりとかすると士気が上がる感じするし、見てるこっちのテンション上がるし。
でも管理外の味方は所詮「管理外」なので、ハナからあいつは味方!助けてくれる!っていう勘定はできない人たちのことなんです。
(管理っていう言い方は嫌なんだけど他にいい単語思い浮かばなかった)

ええ!まさかあいつが?!
みたいな。

八方美人というのとはまた違って、きちんと自分を持って外の人たちの信頼を得れる人間でいられれば、という意味で。

時々めっちゃ嫌になるやん
ほんと腹立つこともあるし
もう、なんなんお前!みたいなのいるし

しかし、しかし。

そんな嫌なやつにもおべっかではなく誠意ある対応したりとか。
ドラえもんの名言にも「いじわるされるたび優しくしてやったらどうだろう」ってあるし、そんな感じの。

めっちゃ優しい人に最悪の意地悪できるやつが世界に何人いるだろうか( ´ω´) 

時々こんな道徳を思い返したりとか。
そういうの大事よね。
全然実行できてないけど。






仲良しごっこには分からないこと



わたしはOKじゃない。
あなたもOKじゃない。
それでOK

という名言があって、これを頭でも経験でも理解するのに私はかなり時間がかかったと思う。
割と感受性が強く、なんとなくで“今、あの人はこう考えていて、でもこっちの人は口で言うほど納得してない”とかが細かく分かる方。
で、だからこそたくさんの無言の主張に揺さぶられていたような気がする。
主張はすれども、根本的には平和主義なので丸く収まればいいなと思ってる。
もし自分が折れれば済む話なら、まぁそれでいいんじゃないかと。全体の調和の方が気になる、と。

相手がOKじゃないなら解決してあげたい。と、ほとんど全ての事柄に対して思っていた。
けど、その前に自分がOKなのかどうなのか。
“OK”というのは、
  1. 理論的に筋が通るか
  2. 感情的に納得できるか
どちらも満たされていること、だと思う。
2を蔑ろにするとそれはいつか尾を引いて何度も同じ問題を連れてきてしまうもの。

難しいのは、お互いにOKじゃないことがあるということを認め合える関係そのもの。
みんなみんなとこれができるわけではないからこそ、それは貴重な人間関係だと思うのです。

意見が違うからダメ、と思って終わるのではなくて、その先には意見が違うことを認識しあい、その状態を認め合うということがある。

遅いかもしれないけどここ1年の間に噛み締めていること。




憧れのお姉さん

この前ね、セーラームーンの変身ブローチのガチャガチャを発見してしまって。
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3人がかりで10回やってしまった、、笑
セーラームーンRのを狙ってたんだけど結果3種類。何故か驚異のちびうさ率。
それにしても胸が高鳴りすぎて大変でした。
ものすごい人気で、ガチャガチャにも次から次へとお客様が。
被ったブローチは友達にあげて、今は薬入れ(2錠しか入らない 笑)として活用してます。

20年くらい前にすきだったセーラームーン。あの頃、中学生と高校生の区別がつかなくて、むしろ小学校の先が一体何がどうなってるのか全然わからなくって本当に未知の世界だった。
中学生なんて大人も同然だった。

セーラー服を着て、中学の四角い鞄(結局自分の中学時代には廃れていた)を持って。もはやそれはOLとどう違うんだろうぐらいに大人に見えた。
大人のお姉さん=月野うさぎ たちだった。

しばらくたって見直すとウラヌスたちが車に乗ってたりワイン的なものを飲んでたりで、あれ?高校生じゃなかったっけ?的な表現があって、これじゃ大人と勘違いするよなーって納得したこともあったのですが。

少女漫画のお姉さんたちが学校帰りにお茶したり、恋愛話で盛り上がってるのに憧れた子ども時代。
結果、中学生なんてとても子どもだしわたしの田舎じゃ制服が変だったり校則厳しすぎたりで、イメージと全然違ったけど、そんな時代もまた通り越してたくさんの自由を手に入れた今も、やっぱりセーラー戦士たちは永遠のアイドルであり続けているんだなぁ、と。そう思いながらブローチに頭痛薬を入れて持ち歩き、偏頭痛と戦いながら元気をもらう24歳。




あの年の浴衣

和箪笥には、わたしのとても渋〜い浴衣が眠っています。
あれを選んだのは19歳。成人式用に着物を買ってもらったら、キャンペーンで浴衣もひとついただけて、でも結局おばあちゃんにキャンペーン対象外ゾーンのものを買ってもらっちゃった、というものです。

着物は母好みのとても前衛的というか、、生地も帯も帯留めも全てが女の子趣味のふわふわしたかわいいデザインのもので、当時古典柄に憧れていたわたしの思いとは真逆の代物でした。
(結局承諾して買ってもらっちゃったのだからそれについては何も言えないけど)

後日浴衣はたまたま母無しで、おばあちゃんと2人で選びにいきました。
多分ふわふわな着物の反動で、選んだ浴衣は渋い黒地のとても大人っぽい柄のもの。

久しぶりに和箪笥を開けた時、改めてそれを見て結構びっくりしたのです。
これを19歳が着るのか、、、って笑
なんならアラフォーぐらいでようやく似合うレベルにいくぐらいじゃない?!と。言い過ぎかな?

多分あの浴衣には当時のわたしの夢と憧れが詰まってる。
生き急いで早く大人になりたくて、めちゃくちゃカッコいい女になりたかったあの頃。
それ自体無意識で、実際冷静にそうだったなと省みれるようになったのはごくごく最近。浴衣の柄は、タイミング的にもその答え合わせのようで面白かったです。

今はね、あれから5年経ったけどこれよりもっと若い柄着たいわーとか思ってる笑
まだまだこの浴衣に追いつきそうにないですから。
でもそのことに、今はなんの焦りも感じません。

それもまた人生〜♪





大人も子どもも人間だもの

ドラえもんのお話で「パパもあまえんぼ」っていう話があって、何度も見たことがあったんだけど久しぶりにみたら今回は初めて涙腺を攻撃されました。

お話は、のび太がママに珍しくおもいっきり甘えるシーンがあった後、酔っ払ってくだをまいたパパが帰ってきます。
「パパはこの家の主で一番偉いんだぞう!」と主張するので、こんなパパを叱れるのは今は亡きおばあちゃんしかいない!と、タイムマシンでおばあちゃんが生きている頃に戻って酔っ払いのパパに会わせます。

すると、パパは段々甘えん坊になっておばあちゃんに泣きながら訴えます。
「だってね、部長がぼくのことをいじめるんだ!」って。

そうしてドラえもんが「大人ってかわいそうだね。よりかかって甘えたり叱ったりしてくれる人がいないもの」と言ってしめくくられます。

いつもはそうだなぁ、くらいに思ってはいたのですけれど、パパが仕事の弱音をおばあちゃんに言うシーンでじわっときました。
パパも詳しくは言わないけど色々あったんだろうなぁ、、、と、初めてパパ目線になりました。

大人も人に甘えたって良い!!

気にしないっていうスキル

去年1年かけて部屋の大掃除をしました。
部屋と言ってもベッドとタンスと勉強つくえを置いたらもう座るスペースも無いので友達をよぶような感じでは全くない、ただの寝る部屋です。

ところがこの狭さが不満だった小さな部屋には1年前、ドン引きするぐらい昔の物が大量に放置されていました。
机やベッドの引き出し、カラーボックスの中、机の上の本置き場、勉強机サイドのワゴンの中。

高校生の頃の教科書、若かりし頃のプリクラ、捨てにくい思い出の品、着ない服、ガラクタ同然の小物たち。
今となってはもはやなにがあったかほぼ覚えていないぐらい。実は思い入れの無い物の方が多かったんだと思う。

そこから奮起して長い時間をかけて捨てに捨てまくり、服や本を売りまくり、床をふいたり窓のサッシをキレイにして。
そしたら部屋だけじゃなくて不思議とものの考え方もちょっとずつ変わってきました。
まぁ、今がパーフェクトってわけでもないんだけど。

きっかけは自分自身にうんざりしてきて、なにかしら転機が欲しいと思ってネット検索したこと。ひたすら「人生 転機」みたいな感じで。完全に他力本願だけど、、、。
そしたら掃除すると運が良くなる!的なのを見つけてそこで重い腰があがったわけです。
変な幸運アクセサリー買わされるわけでもなく、思い込みで今ある幸せ数え作業をするわけでもなく、掃除。

わたし、小さい頃から物が捨てられないタイプで、よく大事なシールとか使うこともできずにしまい込んで、大きくなってからもう対象年齢じゃないってなって捨てたりしてた。
でも、掃除=運気って考えるようになってからは使わないもの=捨てる!になったから、大事なもの=使ってなんぼ!っていう風にシフトできたわけです。

それから、「いつか使うかも」をバッサリ切り捨てられるようになって今必要なものが必要な分あればいいっていう状態が落ち着くようになりました。

元々「気にしぃ」なのです。
他人が、それもたった1人が反対意見を言うとそれも含めてみんな納得できるものにしたいって思ってた。
それも大事なんだけど、自分が抱えられる人や荷物って無限じゃないよなぁと掃除をしながら思います。

物を収納するスペース、人が生きる寿命、流行の期間、他人と共有する時間。
その全てに限りがある。
いつか使うかもしれないアイテムは、それは死ぬ時までとっておきたいほどのものなのか?
とか。

こんなにもっともらしく書いても、根本的に掃除グセみたいな能力は備わってないのでいつも全部がキレイということは全くないんですけど。

気に入ったものだけしか無いスペース。
それが最高だと今は思うの。
部屋も人生も。